少林流空手道とは

少林流空手道とは

昔から沖縄では、空手のことを「手(ティ)」と呼んでいた。その後「唐手」、「空手」へと名称が変わり現在に至っている。また、継承された地域により「首里手」「那覇手」「泊手」の三系統に分類される。喜屋武朝徳先生の空手流儀は「首里手」系および「泊手」系とされる。少林流空手は喜屋武朝徳先生の高弟の一人、奥原文英先生から三代目曠に承継され沖縄空手伝統の古流型を守り受け継いでいる。特に少林流空手には動物の闘争本能から色々の技法が生まれ、蹴りは低く掛け手や手刀、猫足が多く見られる。

少林流の相伝

 喜屋武 朝徳  
 1870年(明治3年)琉球王国末期に首里儀保町(現:那覇市)で誕生。
 琉球最後の国王尚泰の家扶(家務・会計)を務め、文武両道にたけた御父喜屋武親雲上朝扶より唐手を教わる。後に首里手中興の祖松村宗昆に師事。泊手の松茂良興作、親泊興寛にも師事している。
 少林流が半月(セイシャン)の型を基本とするのは、首里武士には珍しく身体を固めるのが得意とした御父朝扶の影響とされている。
 喜屋武朝徳先生は目が小さかったことから「喜屋武(チャン)・目(ミー)小(グヮー)」と呼ばれた。小柄で痩せた体格であったが、力が強く素早い動きから掛け試しの武勇伝も伝わる実戦唐手家であった。
 拳聖と謳われ、世界に知られる空手道の大家であった。
 奥原 文英  
 1917年(大正6年)沖縄県知花村(現:沖縄市知花地区)生まれ。
 1932年(昭和7年)頃 沖縄県立農林学校在学中、喜屋武朝徳先生に師事し、比謝矼のたもとにあった、喜屋武先生の住居兼道場において空手稽古に勤しむ。
 喜屋武朝徳先生の高弟の一人であり、県内各地にて開催された演武大会に、兄弟弟子の仲里常延(少林寺流開祖)らとともに参加している。少林流の型分解写真にも登場している。
 終戦後の混乱期において熊本、鹿児島、大分など九州各地で演武大会に参加し、少林流の空手普及に務めた。1946年(昭和21年)3月、東京六大学のボクシング部の鹿児島興行において、観客の中から参戦の名乗りをあげた奥原文英先生は「空手をやっている」と言い、ボクシング選手達は、思いがけぬ空手家の参戦に恐れをなした。だれも相手にならないと知った奥原文英先生は、型を披露した。その動きは生きいきと輝き周囲のだれもが驚いていた。その中に三代目がいた。
 三代目 曠  
 1926年(大正15年)鹿児島県加治木町において誕生。
 少年期に示現流剣術を通して武道に触れ、御兄上より空手の指導を受けた。1946年(昭和21年)に拳聖喜屋武朝徳先生から少林流を伝承された奥原文英に師事し、師範の称号を与えられる。
 1950年(昭和25年)神奈川県横須賀市汐入(講徳館)で空手指導を始め、翌年、米ヶ浜(井上道場)に移転。この後は横須賀警察署道場を始め多くの道場にて空手指導を行い、1955年(昭和30年)少林会(現:少空会)設立の礎となる。また、同時期に横須賀空手協会の組織、運営に大きく貢献した。住居を練馬に移転した後も横須賀の少林流空手道発展のため尽力された。
 平成22年1月10日 東京都の病院にてご逝去(享年84歳)


 ◎国際少林流空手道 少空会
 ◎各道場

少林流空手道 道場訓

  • 1.人格完成に努めること
    2.誠の道を守ること
    3.努力の精神を養うこと
    4.礼儀を重んずること
    5.血気の勇を戒めること